ワッハーブ 王国

ワッハーブ

Add: fulalawi89 - Date: 2020-12-03 17:29:10 - Views: 6035 - Clicks: 5520

(カージャール朝創始者のアーガー=ムハンマド:wikiより) 1787年、トルコ系カージャール族がテヘランを首都としてカージャール朝ペルシアを開きました。カージャール朝はイラン各地の地方政権を滅ぼし、カージャール朝によるイラン全土の支配を実現します。カージャール朝の創始者で初代シャー(王)はアーガー=ムハンマドです(上の画像を参照してください)。ちなみに、カージャール朝の首都テヘランは現在のイランの首都でもあります。 ワッハーブ 王国 19世紀に入ると、ロシアは南下政策を推し進めました。南下政策については以前、受験に役立つヨーロッパの歴史「19世紀のロシアと南下政策」に記載しました。ぜひ、こちらもお読みください。 そこで、カージャール朝の王たちはイギリスやロシアに便宜を与え、時には領土を割譲して王権を守ろうとします。ロシアの南下政策が強まり、第1次イラン=ロシア戦争が起きるとカージャール朝はロシアに大敗します。大きく領土を失いました。カージャール朝の地図を記しておきますのでしっかりと場所は覚えておくようにしましょう。 1826年、カージャール朝はロシアと再び戦端を開きます。第2次イラン=ロシア戦争でもカージャール朝は敗北します。1828年カージャール朝はトルコマンチャーイ条約でアルメニアの割譲とロシアに領事裁判権(治外法権)を認めました。トルコマンチャーイ条約はカージャール朝とロシアとの不平等条約です。トルコマンチャーイ条約の語呂合わせを覚えておきましょう。 また、カージャール朝はロシアの支援の下、1838年にアフガニスタンに侵略しようとしますが、イギリスに阻まれます。要は、カージャール朝はロシアとイギリスによって不利な立ち位置におかれることになりました。. ③ ワッハーブ派は、アラビア半島中部の豪族サウード家と結んでワッハーブ王国(1744頃~1818、 1823~89)を建設し、リヤドを首都とした。 第1 次ワッハーブ王国(1744 頃~1818)は、オ. アーシューラー:断食潔斎の日 4. (水タバコ:wikiより) ロシアやイギリスなどの欧州列強と戦って敗れ、不平等な条件を受け入れたカージャール朝に対し、イランの民衆は不満を貯めました。そこで、1848年、カージャール朝は自身の宗派であるシーア派の分派であるバーブ教徒を弾圧しました。これに反発したバーブ教徒は反乱を起こします。 ワッハーブ 王国 欧州列強の進出と理不尽な搾取、カージャール朝に対する不信感などが爆発したのが19世紀末におきたタバコ=ボイコット運動です。原因はカージャール朝の外債依存でした。外国、特にイギリスからの債務を返済できなくなったカージャール朝はたばこ製造の専売権をイギリスに与え、借金返済の代わりにしようとしました。 酒を禁じられているイスラーム教徒にとって、数少ない嗜好品である「タバコ」が外国人の意のままにされることに対しイラン民衆は激しく怒ります。このことを知ったシーア派のウラマー(イスラム教の法学者)や思想家アフガーニー(正式名サイイド=ジャマール=アッディーン=アル=アフガーニー)らは激しく反発しました。ちなみにアフガーニーの宗派はスンナ派でしたが、彼はシーア派とスンナ派に関係なく両者のの垣根を超えてヨーロッパ列強に対抗しようとパン=イスラム主義を唱えます。 その結果、カージャール朝政府はイギリスにタバコ製造の専売権を与えることを断念します。しかし、多額の違約金が発生したので財政はさらに悪化しました。 その後、カージャール朝は後にパフレヴィー朝に滅ぼされます。そして、パフレヴィー朝は現在のイランという国号になりました。現在のイランの原形がこのカージャール朝時代にできた形です。なお、イランの女性運動の萌芽とされるカージャール朝のタージョッサルタネ王女が自身のいたハレムでの回顧録についての本があるのでよければ読んでみてください。. イード・アル=アドハー(クルバン・バイラム):メッカ巡礼(ハッジ)終了日の犠牲祭 3. クルアーン及びスンナの規定に基づかなければ、何も認めてはならない。 5. ワッハーブ派の守護者 サウード家とワッハーブ王国.

デジタル大辞泉 - ワッハーブ派の用語解説 - 《Wahhāb》18世紀半ばアラビア半島で、ムハンマド=イブン=アブドル=ワッハーブが起こしたイスラム教の一派。コーランとスンナの厳格な適用を主張し、後代の付加物をすべて異端として否定。サウジアラビア王国はこの派を国是としている。. ムハンマドは、審判の日にアッラーフから赦しの許可を得る(スンナ派は、既に赦されていると考えている)。 8. ワッハーブ王国→ヒジャーズ・ネジド王国→サウジアラビア王国 【第1次ワッハーブ王国(1744ころ-1818年)】 ・サウード家とワッハーブ派が協力してアラビア半島に勢力を拡大 ・西欧式火器をもつムハンマド・アリーのエジプト軍が滅ぼす(1818年) 【第2次. 1744年、両家はオスマン帝国から独立して ワッハーブ王国(第1次サウード王国) を樹立。 1802年、メッカとメディナを含むヒジャーズ地区を占領することで、アラビア半島の大部分を支配することになる。. ワッハーブ派の運動が高まりを見せた18世紀半ば頃、アラビア半島では ワッハーブ王国 が建設されました。アラビア半島の豪族 サウード家 がワッハーブ派と結んで建設した王国です。. ライラトゥ=リ=ムバラカ(権勢の夜):全ての生物及び植物界がアッラーフに服従するラマダーン月の神秘の夜 1. (ピラミッドの戦い:wikiより) 1798年、フランスの将軍ナポレオンはイギリス経済に打撃を与えるためエジプト遠征を実行。ナポレオン率いるフランス軍はアレクサンドリアに上陸しました。ナポレオンについては「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(フランス革命とナポレオン)【近代編その6】」を読んでください。 ナポレオンはマムルークを主体とするオスマン帝国軍をピラミッドの戦いで打ち破ります。しかし、イギリスのネルソン提督がアブキール湾の海戦でフランス海軍に勝利します。制海権を失ったナポレオンはフランスへと脱出しました。 ナポレオン軍の撤退後、エジプトはオスマン帝国が派遣した軍とエジプト総督、地元の有力者であるマムルークが三つ巴になって争う混乱状態となります。.

ワッハーブ王国 すごく愉快な王国名だと思いませんか? 友人曰く 「なんかもうただ笑ってるだけじゃないよね。 最後、吹き出しちゃってるよね」 こういうことらしい。 ワッハー(≧ ≦) ブッ! (ウラービー:wikiより) 19世紀の末、エジプトの財政は完全に破綻します。イギリス人やフランス人がエジプトの大臣となる事態まで発生しました。外国支配が強まる中、軍人のウラービーが「エジプト人のためのエジプト」を掲げて革命を起こします。 ウラービーは反ヨーロッパ、反オスマン帝国を掲げました。しかし、イギリス軍がアレクサンドリアに上陸しウラービーを逮捕します。エジプト最初の民族主義運動は失敗に終わります。この革命にはパン=イスラーム主義の思想家アフガーニーも参加していました。その後、エジプトはイギリスに国家の主権の大部分を委ねる保護国とされてしまいます。. イブン=サウードはワッハーブ派イマーム(宗教指導者)を兼任したためこれをワッハーブ王国と呼びます。 えてしてこういう改革運動は、既存の宗教環境に飽き足らない人々の心を捕え急速に拡大するものですが、この第1次ワッハーブ王国も南部を除く. 第2次ワッハーブ王国 1823年~1889年 第1次ワッハーブ王国の滅亡後、半島中央部はサウード家の残存勢力と、それから分かれたラシード家が激しく争った。1823年にサウード家はリヤドを都としてワッハーブ王国を再興した。しかし、サウード家に内紛が生じ. See full list ワッハーブ 王国 on wpedia. (キオス島の虐殺:wikiより) 国内改革で力をつけたムハンマド=アリーの目は、外国へと向けられます。1818年、ムハンマド=アリーはオスマン帝国の要請に応じアラビア半島のワッハーブ王国を滅ぼしました。 1821年、ギリシア独立戦争が始まりオスマン帝国が鎮圧に苦戦するとムハンマド=アリーに援軍を要請します。エジプト軍はギリシア軍を次々に打ち破りますが、イギリス・フランス・ロシアが介入します。オスマン帝国・エジプトの連合海軍はナヴァリノ海戦で敗北します。ギリシア独立が決まりました。 ギリシア独立戦争後、ムハンマド=アリーは援軍派遣の代償としてオスマン帝国にシリアを要求します。しかし、オスマン帝国が拒否したことから第一次エジプト=トルコ戦争が始まります。エジプトはロシアの支援を受け戦争に勝利します。 オスマン帝国の弱体化については以前、受験に役立つヨーロッパの歴史シリーズで記載しました。是非「オスマン帝国の衰退」をお読みください。 しかし、ムハンマド=アリーの力が強くなりすぎるのを警戒したイギリス・フランス・ロシアがシリア奪還を目指すオスマン帝国を支援します。1839年、ムハンマド=アリーは第二次エジプト=トルコ戦争で敗北します。エジプトはオスマン帝国から独立しますが、領土の拡大は欧州列強によって阻まれました。. ムスリムは、以下の4つの休日だけを遵守すべきである。 1.

預言者の誕生日を祝ってはならない。 2. (+ε+)) くだらないね〜くだらないわ〜/(^o^)&92;. 世界大百科事典 第2版 - ワッハーブ王国の用語解説 - ワッハーブの教えはベドウィン戦士の士気を奮い立たせ,昔ながらのベドウィン同士の戦いはジハードとして意義づけられた。1765年にムハンマド・ブン・サウードMuḥammad b.

多くの人々は、アッラーフを信じず、聖人の霊廟訪問により神の恵みを受けようとしているが、これは虚偽である。 3. 人間が意思の自由を持ち得るとの主張は、異端である。 7. 勧善懲悪の実践 3. See full list on wearewhatwerepeatedlydo. 1811 ワッハーブ王国を攻撃 1820 スーダン征服 1823 ギリシャ独立戦争ではトルコを援助第1次エジプト・トルコ戦争 ・エジプトがシリアに遠征、西アナトリアまで進軍 ・エジプトのシリア領有承認(1833 キュタヒヤ条約) 創始者はムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ(ワッハーブ)。一般にイスラム原理主義と呼ばれて知られている復古主義・純化主義的イスラム改革運動の先駆的な運動であると評価される。 ワッハーブは、18世紀半ばに、コーランとムハンマドのスンナに戻り、イスラム教を純化することを説き、当時ナジュドで流行していた聖者崇拝、スーフィズムを、タクフィールにより異端者として激しく排撃した。 1745年にムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブはワッハーブ派の守護者を意味する聖剣ラハイヤンをナジュドの豪族であったサウード家のムハンマド・イブン・サウードに授け盟約を結んだ。これ以降から現代にいたるまでサウード家はワッハーブ派の守護者となり、教えを受け入れてワッハーブ派を保護し、ワッハーブ派の運動を広げつつ勢力を拡大した。こうして形成されたサウード家の国家をワッハーブ王国と呼ぶが、19世紀初めにカルバラー、メッカを破壊して大虐殺を行った結果オスマン帝国と敵対してムハンマド・アリーに滅ぼされた。また、18世紀前半にはメッカ巡礼者サイイド・アフマドによってインドにも伝えられたが、1824年以後にシク教徒に対するジハードを宣言したが、彼の没後その勢力拡大を危惧したスンナ派・シーア派がイギリス当局とともにこれを抑圧して1870年代には消滅に至った。19世紀末には中国にも伝えられ、イフワーン派(英語版)が形成されるも、イフワーン派はワッハーブ派を否定しており、ワッハーブ派に忠実なサラフィーヤ派(英語版)と対立した。 20世紀初めにワッハーブ派のイフワーンと手を組んだサウード家のアブドゥルアズィーズ・イブン=サウード(イブン・サウード)がリヤドを奪回してからワッハーブ派は国教として復興した。サウード王国がナジュドとヒジャーズを征服してサウジアラビア王国を建国すると、ワッハーブ派はシーア派が強いイエメンを除いたアラビア半島の大部分に広がった。さらに1979年、イラン革命が起こると危機感を抱いたサウジ王室との結びつきは、より鮮明となった。 ワッハーブ派は現在もサウジアラビアの国教であり、宗教警察が国民に対して目を光らせている。また、王家が国庫を私物化しているという不満を受け止める存在ともなっている。同国出身のオサマ・ビンラディンも元々ワッハーブ派に属する信徒であったとされる。 中央アジアのウズベキ. エジプト古王国→中王国→(ヒクソス)→新王国(vsヒッタイト)→アッシリア王国 といった感じです. ワッハーブ派はアラビア半島の豪族 サウード家 と結びつき、18世紀半ばに ワッハーブ王国 が成立しました。 ただしワッハーブ王国は1818年にムハンマド=アリーの攻撃で滅亡してしまったので、アラビア半島の完全な自立が達成されたわけではありませんでした。.

【ワッハーブ王国再興】 19世紀初頭に台頭したサウード=ワッハーブ王国成立が、オスマン帝国の要請した ワッハーブ 王国 ___ 治めるエジプトの軍隊によって滅ぼされると、その後ワッハーブ派は雌伏を余儀なくされた。. タビル(起源、最初への回帰)の方法、つまり、理性的又は象徴的・比喩的解釈の方法により、クルアーンを解釈することは禁じられる。 6. ワッハーブ派の三大理念として以下のものがある。 1. 郷里を追われたアルワッハーブは、ナジュド地方の豪族で後のサウジアラビア王国の源流となる、サウード家に身を寄せて支持を受けながら、哲学思想・神秘主義は初期の正しいイスラームに対する歪曲・逸脱であり、コーランと預言者のスンナに立ち戻る. コラボし「ワッハーブ王国」(1744頃〜1818年、1823〜89年)を建国した。 これが現在の「サウジアラビア🇸🇦」の源流だ。 彼のすすめた運動は、今日までつづく「イスラーム教を改革しようとする運動」(イスラーム改革運動)のルーツともいえる。.

(イスファハーン:wikiより) 17世紀、アッバース1世の登場により最盛期を迎えたサファヴィー朝は17世紀後半に入ると急速に弱体化します。サファヴィー朝の歴史については、以前、受験に役立つオリエント史第7回「ティムール朝とサファヴィー朝」に記載しました。ぜひ、こちらもお読みください。 1722年、アフガン人のギルザイ族が都のイスファハーンを攻め落とし、サファヴィー朝が滅亡します。その後も、いくつかの王朝がイランを支配しますが不安定な支配が続きました。. (ムハンマド=アリー:wikiより) 混乱したエジプトで急速に力をつけたのがムハンマド=アリーでした。ムハンマド=アリーはオスマン帝国が派遣した軍団の一員で傭兵隊長だったといいます。ムハンマド=アリーは1805年にカイロ市民の支持を得てエジプト総督となりました。 事実上、オスマン帝国から独立他ムハンマド=アリーはエジプトで強い影響力を持っていたマムルークの排除を図ります。1811年、ムハンマド=アリーはマムルーク500人余りを式典に招待し、その会場で皆殺しにしてしまいました。 反対派を排除したムハンマド=アリーはエジプトの近代化を推し進めます。商品作物の綿花の奨励、灌漑用水の導入による生産力向上、税制改革、工場建設、外国人技術者の導入、教育の充実、徴兵制度による陸軍の整備など改革派あらゆる分野に及びました。. タウヒードの宣教 2. また、ワッハーブ主義は第一次ワッハーブ王国(または第一次サウード王国)などによるアラビア半島諸国の統一とオスマン帝国への反発に貢献した。 概要. イード・アル=フィトル(バイラム祭):ラマダーン月の断食終了を記念した斎明けの祝日 2.

アッラーフを除き、全ての崇拝対象は虚偽であり、それらを礼拝する者は、死に値する。 2. (スエズ運河開通:wikiより) ムハンマド=アリーの死後も、エジプトは豊かな農業生産力をもつ東地中海の大国でした。しかし、スエズ運河建設がエジプトに大きな変化をもたらしました。 フランス人技師のレセップスがエジプトにスエズ運河の開削計画をもちかけ、工事が始まったのが1859年です。それから10年の歳月をかけてスエズ運河は完成にこぎつけます。スエズ運河はフランスとエジプトが共同運営しました。 1862年にエジプトは外国資本からお金を借りる外債を募集します。以後、エジプトの外債は増え続けます。1875年、財政難に陥ったエジプト政府はイギリスにスエズ運河株を売却しました。以後、イギリスはエジプトに対する干渉を強めます。. ワッハーブ王国(「ワ」事項索引) 18世紀のなかばごろ、アラビア半島でイスラム教の改革をとなえるワッハーブ派の運動が起こり、かれらは豪族のサウード家とむすんで「ワッハーブ王国」を建設した。. オスマン帝国の弱体化やサファヴィー朝の衰退により西アジアに勢力の空白地帯が生まれました。エジプトではムハンマド=アリー、イランではカージャール朝、アラビア半島では第一次ワッハーブ王国が建国されます。 しかし、帝国主義を奉じるイギリス・ロシアなどはこれらの国々を抑圧し、保護国や植民地としていきました。現在のイランであったり、サウジアラビアの原形にもなっているのでしっかりと理解して勉強していってください。今回は、ここまでです。もう少しでアジア史は終了です。お疲れ様でした。 次回は「フサイン=マクマホン協定などによる中東問題とパフレヴィー朝イランについて」です。 前回の記事「近代のエジプトとエジプトの植民地化」 にほんブログ村 にほんブログ村.

ここに第一次サウード王国は消滅した。ワッハーブ派の少数の生き残りが再起のため砂漠に逃げ、19世紀の間のほとんど、そこで沈黙を貫いた。. Sa‘ūdの没したとき,半島の中・東部の大部分はサウード家の支配に. アッラーフだけが人間の全ての秘密を知っているため、祈祷での預言者、聖人、天使等の名の言及は、多神教の徴候とされる。 ワッハーブ 王国 4. 前掲2)のワッハーブ王国を起源として、20世紀に今日のサウジアラビア王国・イラク王国・トランスヨルダン王国が成立 した経過を、従来の伝統的な叙述順を無視して、引き続きここにまとめておく。№170で再度述べる。. 時代は18世紀の中頃に遡ります。 当時中東一帯はオスマントルコ帝国の治世下に置かれていましたが、トルコの衰退と共にアラブ人達の間からは独立の機運が芽生え始めます。. エジプトの混乱に乗じて権力を握ったムハンマド=アリーは、周辺諸国に積極的に出兵しエジプトの領土拡大をはかりました。 しかし、これに警戒心を抱いたイギリスなどのヨーロッパ列強はエジプトの大国化を押さえつけます。 ムハンマド=アリーの死後、エジプト政府は多額の債務支払いのためスエズ運河株をイギリスに売却してしまいます。イギリス・フランスの支配が強まる中、軍人のウラービーが蜂起しますが鎮圧されてしまいました。 次回は「カージャール朝とワッハーブ王国」についてです。 前回の記事「【世界史B】受験に役立つオリエント史(衰退するオスマン帝国)第11回」 にほんブログ村 にほんブログ村. ワッハーブ派は、中部アラビアの豪族サウード家と結んでワッハーブ王国(1744頃~1818、1823~89)を建設し、リヤドを首都とした。 第1次ワッハーブ王国(1744頃~1818)は、オスマン=トルコから征討を命じられたエジプト総督のムハンマド=アリによって1818. シャリーアの厳格な施行 ワッハーブ派はこれら三大理念の実施の結果、極めて厳格なシャリーア(イスラーム法)の遵守、聖地の聖廟の破壊などを行っている要出典。 1.

ワッハーブ王国の建国 ワッハーブ派の主張は、ムハンマド時代の純粋な教えが、 神秘主義 (スーフィズム)や聖者崇拝によって間違った方向に向いていると批判し、 コーランとスンナ(慣行)だけをよりどころとした本来の信仰 に立ち返るべきであると. (カーバ神殿:wikiより) オスマン帝国が衰退するとアラビア半島でも独立の動きがみられるようになりました。オスマン帝国の衰退については、以前、受験に役立つオリエントの歴史第9回「衰退するオスマン帝国」に記載しました。ぜひ、こちらもお読みください。 18世紀半ば、アラビア半島でワッハーブ(正式名:ムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブ)がイスラーム教の改革運動を展開しました。ワッハーブは厳格な原始イスラーム教を復活させようとします。これに共感したのが豪族のサウード家でした。 ワッハーブは、ワッハーブが生きた18世紀中ばのイスラーム教は神秘主義であるスーフィズムの影響で誤った方向に進んでいると指摘します。コーランとスンナ(慣行)だけをよりどころとした本来の信仰に立ち返るべきだと主張しました。 そして、1744年頃にワッハーブ派とサウード家でワッハーブ王国をアラビア半島で建国します。アラビア半島という場所は、まさに聖地がある所ですね。そこで、ワッハーブとサウード家は1803年にメッカを、1804年にメディナを占領します。 このことを脅威に感じたオスマン帝国はエジプト総督ムハンマド=アリーにワッハーブ王国討伐を命じます。ムハンマド=アリーについては以前、受験に役立つオリエントの歴史第12回「近代のエジプトとエジプトの植民地化」に記載しました。ぜひ、こちらもお読みください。 1818年、近代化したエジプト軍はワッハーブ王国の軍に勝利します。メッカ・メディナを奪還し、サウード家の拠点まで攻め落としました。ワッハーブ王国は滅亡してしまいましたが、アラブ人の民族的自覚を促したという点で歴史的意義は大きいとされます。簡単に地図を上げておきますので位置関係をしっかりと理解しておきましょう。 また、ワッハーブ王国の語呂合わせとして以下のものを覚えておきましょう ちなみに、ワッハーブ王国は、20世紀初頭に再興され1932年に国名をサウジアラビア王国としました。世界第2位の原油埋蔵量を持つ国として、またメッカ、メディナを有する国として世界経済に現在もなお影響力を有しています。. 女性は、過度に慟哭するため、埋葬地を訪れる権利を有さない。 9.

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ワッハーブ 王国 - エルンスト カッシーラー


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