応仁 の 乱 グダグダ

グダグダ

Add: ocycu71 - Date: 2020-12-14 18:06:55 - Views: 5544 - Clicks: 2055

戦争を歴史の中でとらえる場合、まず、押さえておきたいのが、いつ、どこで、誰と誰が、なぜ(原因)、何のために(目的)行ったかです。 そして、勝者と敗者がどうなったのか、その後の社会にどんな影響をあたえたのかということも大切です。 まず、戦乱当初の状況について、お伝えします。. 戦国時代の先駆けとも言われている応仁の乱。学校で習ったかと思いますが、この乱の関係図が非常にややこしいため挫折する人も多いそうです。 今回はそんな応仁の乱について原因を中心に解説していきたいと思います。 この記事の目次 応仁の乱の簡単な概要 力を増していく守護大名 守護. 5万人ですからね。半日と11年という終焉までの時間に大きな違いがあるので、もちろん数字だけでは図れませんが. という事で、当時のトップクラスの知識人からしても意味不明な戦乱だった。ざっくり説明すると 1. 開戦当初、東軍はいち早く将軍邸を占拠し、義政・義尚・義視の3人を確保。さらに後土御門天皇と後花園法皇を保護下に置いたことで、東軍は「官軍」としての体裁を整えることとなった。後に西軍の総大将に担ぎ出される足利義視もこの時は東軍を率いており、また義政による降伏勧告に斯波義廉らが応じようとしたこともあって、当初は東軍が戦況を優勢に展開していた。 しかし6月に入ると大和の古市氏らが、さらに8月に大内政弘が各々軍勢を率いて上洛し西軍に合流、とりわけ大軍を擁する大内政弘の参戦は、戦況を一変させる契機ともなった。またこの頃、義政の意向で伊勢貞親の幕府復帰の動きも本格化したことから、東軍主将であった義視は立場を失い伊勢北畠氏の元へ出奔。 9月から10月にかけて戦火は京都郊外にも拡大し、激戦となった相国寺の戦いを経て東軍が将軍邸を中心にした一角に追い込まれる形に変わるも、結局勝敗を決するまでには至らず両陣営とも多大な損耗を生じたことから、以降洛中における軍勢の衝突は散発的なものへと転じていった。 翌応仁2年(1468年)になってもこの状況に変化は見られなかったが、同年秋に入り事態は思わぬ展開を見せる。一度は帰洛していた義視が、対立関係にあった伊勢貞親の幕政復帰や、次期将軍としての義尚擁立の本格化などにより、再び立場を失い比叡山へ出奔。そしてあろう事か西軍からの要請に応じる形で、西軍陣営の新将軍として迎え入れられることとなったのである。これによって西軍は独自の幕府機構を成立させることとなり、幕府は事実上東西に分裂。これに対して義政がそれまでの和睦路線から一転して、義視らを朝敵と見做すようになるなど、戦乱の収束はさらに遠のくこととなった。 一方で前述したように、この時期の主戦場は洛中から、山城や摂津など京都の周辺に移っており、特に山城では西岡などを中心に細川氏と大内氏との間で衝突が激化するも、次第に戦局は膠着化の一途を辿ることとなる。文明3年(1471年)には斯波義廉の重臣で西軍主力の一角でもあった、朝倉孝景が調略によって西軍から東軍に鞍替えし、これにより形成は再び東軍有利に転じた。対する西軍もこの頃南朝の皇胤を擁立(西陣南帝)、天皇・上皇を擁していた東軍に対抗しているが、これには畠山義就らが難色を示すなど意見の不一致も浮き彫りとなった。 こうした戦乱の長期化の背景には、前述した各. これを応仁の乱と言います。 応仁 の 乱 グダグダ こうして、京都も戦国時代に突入しました。 この戦いで厄介だったのが、生活が苦しくなっていた農民を、両軍が戦いに組み入れたっていうことです。. 南北朝の動乱のさなかに産声をあげた室町幕府だったが、将軍である足利氏の権力基盤は、かつて鎌倉幕府を支配した北條氏と比べると貧弱というべきものだった。これは創立者である足利尊氏の性格や、動乱のさなかに在って敵味方に様々な妥協をして政権を維持していった結果だった。このため、将軍は諸大名の権限の上に権威をもって君臨するという形となり、幕府政治は諸大名たちの合議の上に成り立つものだった。この体制は自国の安定や、他家との調整を望む守護大名たちにとって必ずしも悪くないものだったが、将軍にとっては形式的とはいえ上位にいる自身の命令が必ずしも実行されないこともあった。 この貧弱な将軍権力をいかに獲得するかが、幕府滅亡に至るまでの歴代将軍の課題となった。. 応仁の乱が起きたのは1467年、室町幕府8代将軍・足利義政の時代。 このころ、各地の大名家では、跡継ぎを誰にするか、いわゆる家督争いが頻発.

同書『応仁の乱』はその歴史認識に果敢に挑んだものだが、決して読みやすい本ではない。 当初、「2、3万部いけばいい。 その代わり何年経って. この乱で一番割りを食ったのは? やっぱり京都の一般人でしょう。 戦火によって町の大半は焦土と化し、平安遷都以来の寺社も記録も美術品も、ほとんどが焼けてしまったのです。 「京都では『先の大戦』というと応仁の乱を指す」という都市伝説(?. この課題を相当程度達成したのが足利義満である。諸大名の内乱を誘発し、将軍が制御しやすい片方の勢力に介入することで、有力大名たちを次々と弱体化させて、自身が制御しやすい相手としたのである。幕府の政治は義満の専制となっていった。ところが、こうした政策は義満の死で頓挫し、次代の足利義持の代では、関東との緊張や巻き返しを図る大名たちの画策もあって、幕府の体制は従来の合議体制へと戻っていく。 こうした流れの中で、義持の死後第六代将軍に就任したのが足利義教だった。宿老たちが生きていた時分は比較的押しとどめられた彼も、宿老たちが相次いで世を去ると、万人恐怖と称された強権政治をもって守護大名たちを排除し、将軍権力の確立を推し進めていく。こうした政策はほぼ達成されたかに見えたのだが、恐怖政治故に排除されるのではないかと疑念を抱いた播磨守護赤松満祐によって弑逆される。 残された義教の息子たちは幼く、更に七代将軍足利義勝は早世。義教の死後八代将軍足利義政の成人までの8年ほど将軍権力は空白となる。これが、将軍権力の弱体化となっていった。.

。 応仁 の 乱 グダグダ 関ケ原は、田舎の原っぱですが、応仁の乱は、舞台が「都」のど真ん中ですよ! 都が壊滅状態になってしまったというのも、納得です。 そんな応仁の乱のきっかけは、何だったのでしょう。. /03/28 - 応仁の乱の対立関係図 応仁の乱の対立関係, 有力守護による争い, 西軍は義視をさそい、東西二つの幕府が成立, 管領, 守護, 細川方(畠山政長・斯波義敏・赤松政則ら24カ国16万人), 山名方(畠山義就・斯波義廉ら20カ国11万人), 将軍家当初、東軍が将軍邸を占拠して義政・義尚 義視の身柄. 調停機関であるはずの幕府が機能不全を起こしていた といった辺りが原因といえる。様々な思惑で乱は長期化し、室町幕府の統治体制は崩壊へと向かっていった。. 応仁 の 乱 グダグダ 一方、応仁の乱には英雄らしい英雄がいない。 “平凡な”登場人物がみんな右往左往しながら悩んで、迷って、判断ミスを犯す。 その結果、京の都が焦土と化す史上有数の大乱になってしまうわけです。. 当事者が優柔不断 2.

ないでしょうか!. という理由で拒絶したものの、「子供が出来ても将軍職は義視に譲る」と起請文まで書かれたため、しぶしぶこれを承諾する。後見役には、三管領のひとつ・細川家の細川勝元がついた。 ところが、足利義政の正室日野富子に男児が誕生(のちに足利義尚となる)。日野富子は自身の息子に将軍職を継がせたいと考え、四職にあたる山名家の山名宗全を後見人につけた。 足利義視・細川勝元の勢力と、足利義尚・山名宗全の勢力は当初こそ直接の軍事衝突はなかったものの、三管領の1つである畠山家にて家督争いの激化(畠山政長と、その従兄である畠山義就の家督争い)に端を発して、ついに戦争が発生した。10年以上の長きに渡る「応仁の乱」である。. この「応仁の乱」はそれほど大きな衝突もないままに、グダグダ、だらだらと、7年も続いていくのでした。 ちなみに、上に用意した「勢力図」ですが、参戦した武将の数はまだまだこんなものではありません。. 応仁の乱をまるでnhkの歴史番組のように解説してくれる動画シリーズ「戦国への道」が分かりやすいと評判です。 「応仁の乱」といえば、よくゲームや漫画の題材となる戦国時代を生むきっかけともなった重要な出来事が起こった時代です。. “応仁の乱のグダグダっぷりはすげえよ 義政、せっかく後継ぎのために養子をとったのに、 子供作って後継ぎ決めないまま家出・・・ そして養子と実子で戦争勃発とか意味不明過ぎる 中学生には理解できねえ、 室町時代が何故終わったのかも理解できないまま卒業しちゃうレベル”. 戦国時代の始まりのひとつとも言われる内乱。(※今日では1493年の明応の政変を始まりに据えることが多い) 教科書でも間違いなくその名を習う非常に有名な出来事であるが、どうしてこんな戦いが起こったのかについてはスルーされている事も多いので知らない人も多いと思われる。何故この乱が起こったのか、当時の興福寺の僧侶・尋尊の書き記したところによれば 「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない」.

応仁の乱はグダグダなまま終わりましたが、勝者を挙げろと言われたら、私は細川氏だと思います。 応仁の乱は畠山義就が畠山政長を御霊合戦で退け、斯波義廉が細川勝元の派閥だった斯波義敏を押しのけた後、斯波氏宗家の証である左兵衛佐に就任。. 内紛の当事者たちは幕府の二大実力者である細川勝元と山名宗全をそれぞれ頼っていき、自然と二つの大派閥が形成された 3. 実際、応仁の乱を取り上げた大河『花の乱』(1994年放送、主演・三田佳子=日野富子役)は、当時の歴代最低視聴率を記録した。 そもそもどんな戦乱だったのか。通説をおさらいすると次のような内容となる。. 維城典訓』の「仁之感物、物之応仁、若影随形、猶声致響」から。 応仁期におきた出来事. 混沌の中、8代将軍に就いたのが足利義政。しかし彼は有力大名を抑えこむことが出来ず、次第に政治を嫌い文化の発展へのめり込んでいく。さらに、彼は正室・日野富子との間になかなか子ができなかった。(正確にはできたけど早死) 隠居したいのに後継者がいない。窮した足利義政は、実弟の足利義視に対して将軍の後継者になるように要請した。義視は、兄が30歳にも満たない年齢で隠居することに戸惑い、義政に男子ができれば後継者争いの元となる.

戦乱の長期化と地方への拡大、さらにそれに伴う幕府権力の失墜により、次第に両陣営内の士気は低下しつつあった。また文明3年には畿内を中心として赤痢・疱瘡といった疫病も流行し、こうした情勢から翌文明4年(1472年)頃より、両陣営の首脳間でも徐々にではあるが和睦への取り組みが持たれるようになっていった。 この和睦交渉は畠山義就や赤松政則など、各陣営の主戦派による抵抗もあって思うように進まずにいたが、文明5年(1473年)に宗全と勝元が相次いで死去し、後を継いだ山名政豊(宗全の嫡孫)と細川政元(勝元の嫡男)との間で文明6年(1474年)春にようやく和睦が成立するに至る。無論これはあくまで首脳間での和睦に過ぎず、各陣営に属する諸将の間ではその後も散発的かつ惰性的な小競り合いが続いた。 その間、文明5年12月に義政は、将軍職を9歳になった義尚に正式に譲り、自身は東山山荘(後の銀閣寺と呼ばれる慈照寺)にて隠居生活に入った。幕府機構もこの頃になると伊勢氏や赤松氏、それに日野勝光(日野富子の兄)などを中心に回復に向かいつつあり、前述した山名・細川間での和睦成立後は勝光、そして彼の死後は富子が終戦工作を担うこととなる。富子は幼い義尚に代わって幕政を指揮する一方、両陣営に対する多額の金銭の貸し付けや米投機なども行っており、これによって得られた莫大な利益をもって幕府と朝廷の建て直しに奔走したのみならず、金銭の貸付を通して構築された関係や人脈を、後の和睦交渉の際に大いに役立ててもいる。 一方西軍では主戦派の一人であった、美濃の土岐成頼やその家臣の斎藤妙椿を中心に、越前などでなおも抵抗が続けられるが、文明7年(1475年)の甲斐敏光(斯波義廉の家臣)の東軍帰参により越前が東軍の支配下に収まると、斯波義廉は孤立状態に陥った末に領国の一つである尾張へ下向。さらに義政による大内政弘への働きかけもあり、翌文明8年(1476年)には西軍主将となっていた義視も、義政に恭順の意を示し事実上赦免されることとなった。 そして文明9年(1477年)秋、義就と政弘が各々下国の途についたことで西軍は事実上解体し、去就の決まらずにいた義視も土岐成頼らと共に美濃へ退去。11月20日には西軍解体が完了したことを受けて、幕府による「天下静謐」の祝宴が催され、11年間に及ぶ大乱はここに終結を迎えた。. 「応仁の乱について簡単に知りたい」「応仁の乱の結果とその後の歴史はどうなったの?」「応仁の乱が起こった原因や場所は?」 応仁の乱に関して、以上のような疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか?応仁の乱は1467年から1. 「応仁の乱はどんな戦いだったの?」「10年以上戦った応仁の乱がよくわかる漫画はないかな?」 応仁の乱は、室町時代の応仁元年(1467年)から約11年にわたり、京都で繰り広げられた内乱です。戦いは8代将軍足利義政や有力大名. 応仁の乱の意義(戦国時代に突入) そこから学べる現代の類似点や課題など 「応仁の乱」の著者名;. 文正元年の暮れ、畠山義就が軍勢を率いて河内を発ち、上洛の途についた。これは文正の政変前後から繋がりが出来つつあった、宗全の呼びかけに応じてのものであったとされ、入京した義就は宗全らの支援と軍事力とを背景に、義政に畠山氏当主への就任を認めさせている。 この一連の行動によって、幕府は事実上山名派の牛耳るところとなったが、当然細川派も黙ってはいなかった。とりわけ義就の復権によって畠山氏当主のみならず、管領職までも追われた畠山政長は勝元らの支援を得て巻き返しを図り、義就上洛から間もない翌文正2年(1467年)正月には、花の御所にも程近い京都郊外の上御霊社にて、政長勢と義就勢との間で戦端が開かれた(御霊合戦)。 この時義政から宗全と勝元に対し、合戦への軍事介入を禁じる命令が出されており、実際に勝元はこれに従って静観の構えを見せていたが、これに対して宗全は(合戦に間に合わなかったとはいえ)義就勢へ援軍を差し向けており、結果細川派はこの合戦に敗北を喫したのみならず、盟友であった政長を見捨てたとして勝元への評判までも損ねるという、二重の意味での屈辱を味わうこととなった。山名派と細川派の本格的な衝突は、この時をもって最早避けられぬものとなったのである。 御霊合戦の後、年号が応仁へと改められたこの年の春頃までは、束の間の平穏が保たれていたが、やがて応仁元年(1467年)5月に入ると、諸国にて細川派による軍事行動が相次いで発生、この頃までに勝元と結託していた赤松政則や斯波義敏も、それぞれの旧領である播磨や越前を奪還すべく侵攻を開始した。5月26日には山名派の一色義直邸が細川派の軍勢によって焼き討ちを受け、これを境に両陣営は全面衝突に入った。これが応仁の乱の幕開けである。 両陣営は地元から兵を集め、続々と京都の各勢力に集結。洛中東側に陣を構えた勝元が率いる東軍と、洛中西側に陣を構えた宗全が率いる西軍の二大陣営が形成された。.

そういった情勢の真っ只中である文安6年(1449年)、当時14歳であった足利義政が室町幕府第8代将軍に就任する。就任当初、幕政の実権は管領や乳母といった周囲の有力者によって握られていたが、長ずるにつれて自らの手による政権運営を志向するようになり、関東方面での騒乱や有力大名の家督争いへの介入、伊勢貞親らを始めとする側近勢力の強化などを通して、将軍による専制体制の確立に努めていた。 とはいうものの、やはり有力大名による政治介入に関しては、将軍である義政をしても如何ともし難い部分があり、またそもそも義政自身のスタンスも、その時その時の情勢によって優勢な側へ有利な裁定を下し、時にはその裁定を覆すことすらざらであるという、極めて優柔不断なものであった。そしてこの義政の無定見ぶりは、その後の大乱においても事態の混迷ぶりに拍車をかける要因の一つとなったのである。 それから10年余り後、寛正5年(1464年)に入ると義政は30手前にして隠居を考えるようになり、当時僧籍にあった実弟の浄土寺義尋に将軍職を譲ることを打診。これを受けて義尋は還俗し足利義視と名を改めた。ところが翌寛正6年(1465年)、義政と正室・日野富子との間に嫡男・足利義尚が誕生する。 通説では、この義尚の誕生によって義政夫婦と義視との関係が悪化し、また自分の実子を将軍にしようと考える富子が山名宗全(持豊)を義尚の後見役に立て、義視の排除に動いたと長らく語られてきた。とはいえ実際のところは義視の正室として富子の妹が嫁いでいたこともあり、両者の関係は必ずしも悪くはなかった。また嫡子が誕生したとはいえ、幼児の生存率も低かったこの当時、義視は義尚が無事に成長するまでの中継ぎとしての役割を、義政夫婦らより期待されていたとも考えられている。 しかし当事者間の関係が悪くはなくとも、それを取り巻く有力者の思惑が絡んでくると話は変わってくる。 例えば義政と義尚の養育係でもあった伊勢貞親などは、あくまで義政による政権(と、自分たちの立場)の維持を望んで義視の将軍就任に難色を示し、また一方で貞親ら将軍側近勢力と対立していた山名宗全(持豊)らは、逆に彼らの後ろ盾であった義政の引退(と、義視の将軍就任)を望んでいた。そして政治路線的にこの両者の中間に位置していたのが、当時の幕府管領であった細川勝元らの勢力であり、彼らとしては義政の早期の. 応仁の乱とは、室町時代におよそ11年間にも渡って継続した、日本史でも珍しい内乱です。歴史の授業でももちろん習うのですが、メジャーなわりには内容をはっきり知らないという人も多いのでは?その内容を知るには、本を読んで頭の中で想像していくのが一番です。図解などを交えて解説. See full list on rekishi-style.

各勢力の寝返り 3. 陣営内部の目的の不統一 が挙げられる。将軍家の跡目争いの当事者たる、8代将軍足利義政、将軍後継候補の足利義視(弟)、足利義尚(息子)たちは、主導的に諸大名の争いを収めようとした形跡が殆ど見られず、逆に山名宗全に懐柔されて畠山の内紛を広げるなど、芯の通らない態度を足利将軍家がとり続けていた。 2つ目の「各勢力の寝返り」は凄まじいものがあり、数多くの諸大名が返り忠を行っていた。富樫政親、朝倉孝景などはその代表である。さらに両軍の人間関係は複雑で、西軍総大将の山名宗全の息子・山名是豊は東軍に所属し、父親の西軍と戦っていた。さらに途中からはトップの将軍家まで入れ替わってしまう。 そして、更に厄介だったのが「陣営内部の目的の不統一」である。もともと、将軍家のお家争いを軸として両陣営は争っていたものの、各勢力が西陣や東陣に参加した理由は全く違った物だった。例えば、乱の中盤で大内家が西軍として参戦するが、これは大内家と細川家の瀬戸内の覇権争いや明との朝貢貿易権の争いに端を発する物で、余り各勢力のお家争いとは関わりが無かったりする。つまり、大内家にとって必要な明との貿易から細川家が離脱することなのだが、細川家からしてみれば、将軍位を巡る争いでこの条件はのめないわけである。一方、東軍に付いた赤松家は旧領播磨奪還を望んでのことであるが、現所有者山名家からすればやはり飲めないわけである。 こんな有様なので、両陣営とも和議を結ぼうとするものの、大名毎の和議の必要条件がばらばらで、交渉内容が多岐に渡り複雑化して、あちらが立てばこちらが立たずと言った様で、全く交渉が進まなかったのである。実際、1473年には足利義尚の将軍位が決定するが、その後も戦いは続いたし、大内、細川間や山名、赤松間では和議の後も戦いが続けられたのである。 こうして、応仁の乱は長期化し、京は焼け野原と化す。更に、「将軍家の跡目の決定=権力の獲得」を一応の目的としていたはずの戦争によって、権力の象徴たる足利幕府は著しく弱体化していた。 最早、勝っても何も得られない。何のためにやっているのか. 簡単にいうと、西軍、東軍の戦いは、「引き分け」に終わります。 1473年に、西軍の山名宗全と東軍の細川勝元が相次いで病死します。そうすると、その息子たちの代になり、和睦が締結されたのです。 しかし、京の都は、長い間戦場となり、焼け野原となりました。上京の主だった神社仏閣の多くが、このときに燃え落ちています。 金閣寺・清水寺・聖護院・八坂神社・南禅寺・伏見稲荷大社などの観光名所が、ぜーんぶ焼失してしまいました。 祇園祭も、20年間中止となります。 そして、都の文化が地方に流出し、全国各地に「小京都」と呼ばれる町が生まれます。 応仁の乱が収束しても、地方に飛び火した戦火は、まだまだ治まらず、疲弊した各地で、国人一揆や一向一揆が起こるようになります。京都では「山城国一揆」が起こり、未だに権力争いを繰り返していた畠山氏を、山城国(京都)から追い出すことに、成功したのでした。 この「応仁の乱」によって、足利幕府の力は急速に衰えていきます。 そして、下剋上の時代、「戦国時代」へ突入していったのでした。.

昨今注目の「応仁の乱」 平凡な登場人物とグダグダ長い戦乱(newsポストセブン) 日本の歴史上、最も有名な戦乱のひとつのはずなのに、大河ドラマになれば低視聴率。. . 応仁3年4月28日(ユリウス暦1469年 6月8日) 文明に改元; 出典. この乱が始まり、長期化した主な原因としては、 1. 応仁の乱はなんであんなに長引いた? 応仁の乱の勝者は結局、東軍?西軍? 2ページ目;. 明確な勝者のいない戦いは、両陣営ともにほとんどとくに何も得られずに終わり、それどころか京都を焦土と化し、疲弊した幕府も朝廷も権力と権威を失墜させる結果になった。 幕府内ではその後も将軍職を巡って奪い合いの合戦が相次ぎ、ますます幕府の統制は乱れ、信頼は地に落ちた。そのために、各地の大名も有力者も、庶民すら幕府の指示従わなくなるようになる。 各地では農民たちの一揆も増加し、寺社の独立性や武力を高め、各地の大名も独立独歩で勢力の維持や拡大を図り、実力主義で成り上がる者達が増え、世はまさに群雄割拠と下克上の戦国時代へと移り、大名は戦国武将となっていく。 荒廃した京都を捨てて地方へ移る有力者や文化人、公家も多く、中央の文化や信仰が地方に広まったり、有力者が地方に根付いて勢力を強めたりした。 一方の京都では復興が始まっていたが、権力者達は京都の荒廃を顧みようしなかった。それでも京都の町民達は自力での復興再建に乗り出し、明応9年(1500年)には祇園祭を復活させ、この乱後に西陣織が発展した。.

応仁の乱とは、室町時代の末期、管領家の畠山氏ならびに足利将軍家の跡目争いを発端として、細川、山名という有力守護大名の勢力争いが絡み合って、東西両陣営に分かれて、1467年~1477年までの11年間にわたって京都を中心に繰り広げられ. 応仁の乱当時、京都の治安を受け持っていた 侍所 (さむらいどころ) の長官は、守護大名 京極持清 (きょうごくもちきよ) という人物でしたが、あくまでもこの人は飾りで実際には、持清の重臣の 多賀高忠 (たがたかただ) が所司代の実務を受けもっていまし. 応仁元年(1467年)~文明9年(1477年)にかけて、およそ11年もの長期に及んで続いた日本の内乱。「応仁・文明の乱」とも呼ばれる。この戦いをきっかけに日本は室町時代から戦国時代になったとも言われる。 この大乱がどのような戦いだったかについてだが、ハッキリと言ってしまえばとても簡単には説明できるものではない。全体的にあまりに複雑で、原因も複合的で、目的もバラバラで、実質的な勝者もいない、混沌とした戦いだった。 関係者も比較的マイナー気味な人物が多く、また歴史に詳しくない人でも一度は聞いたことがあるというような有名なヒーロー的人物がほぼ存在しないこともあり、「日本史の授業で名前だけは覚えてるが、内容はよくわからない」という人も多いのではなかろうか。 何とか強引に簡略化して解説すれば、「将軍家と有力大名家の各々の跡継ぎ問題が絡んで二大陣営となって戦い合い、引き分けで終わった戦い」となる。 当時の人々からしても意味不明な戦いと受け止められており、興福寺の僧侶・尋尊はこの戦いについて、自らの記した日記『尋尊大僧正記』の中で「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない!」と記したほどである。. 「応仁の乱」は、1467年に京都を中心に、東軍と西軍に分かれて戦った内乱です。11年も続いた大きな戦いですが、「乱」なのです。 「乱」と呼ばれるものには2つあります。 (1)権力への反乱を指す場合 (2)いくつもの戦いが続く戦乱を指す場合 応仁の乱は、京の都を舞台に、断続的な戦いが繰り広げられた戦いで、天皇家の後継争いも、原因の一つになっています。 戦いの当初、東軍代表は細川勝元、西軍代表は山名宗全でした。 年代の覚え方は、「ひとよむなしい応仁の乱」ですね。 もう、ほんと、むなしい戦いです。 何がむなしいって11年かけて史上最大の動員数で戦ったにもかかわらず、グズグズ状態のまま和睦、勝者も敗者もいなかったからです。 関ケ原の戦いが両軍合わせて16. 足利将軍家・斯波・畠山という幕府の中枢を成す3家で同時多発的に後継者争いが起こった 2.

応仁の乱とは?わかりやすく解説! 応仁の乱とは、1467年から1477年まで続いた室町時代最大の内乱 のことです。. この応仁の乱は、 元々は有力守護大名であった畠山家の家督争いだったのですが、そこから将軍家の跡目争いや細川家と山名家の覇権争いも交わったことによって一気に複雑化し. 元年5月26日(1467年) 応仁 の 乱 グダグダ - 細川勝元派が山名持豊派を襲撃し(上京の戦い)、応仁の乱が始まる。. 応仁の乱が出版界の「空白市場」だったことも注目だ。「新書に限れば、応仁の乱を扱った本が前回出版されたのは30年前.

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応仁 の 乱 グダグダ

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