秦 の 六 大 将軍

Add: solilihu93 - Date: 2020-11-26 11:00:14 - Views: 7443 - Clicks: 8417

樊於期の死ですが、男気を感じるところがあります。 荊軻に依頼された時に、ためらわずに即決で自刎したようですし、ある意味潔さを感じています。. 秦の六大将軍は秦の栄光の時代をつくった華々しい戦いの象徴的存在であります。 王騎 に関しては、信が出会っていたことから描かれる場面が多いかと思いますが、その他の六大将軍は登場が少し描かれている程度です。. 項燕と王翦はついに対決します。 戦力で言えば、秦軍は60万のいるはずなので、数の上では秦軍の方が多かったかも知れません。 ただし、楚も最終決戦という意気込みがあり国中の兵士を集めたという記述もあるので、兵力の上では互角だった可能性もあります。 王翦は塁を作り上げて兵士には「決して、出撃はするな、塁を守っていればよい」と命令しました。 営塁を築いたわけですが、60万もの軍勢が安全に休める営塁となれば、かなり巨大だったはずです。 楚は攻撃をしたりしましたが、防御が固く突破出来ません。 さらに、王翦は兵士を厚くもてなし、休憩させたり木浴させたり談笑を楽しんだりしていたとされています。 兵士は、その生活を続けていると、営塁の中で遊びまで始めたそうです。 これを見た王翦は「やっと使えるようになった!」と言ったそうです。 この王翦の狙いが分かっていた人はほとんどいなかったのでしょう。 その後、楚の間諜が偵察に来て情報を項燕に伝えると、項燕は秦軍には戦意がないと判断して撤収を始めます。 この時を見定めていたように、王翦は楚軍の追撃を始めたのです。 楚軍は、負けてもいないのに敵に追撃される事になってしまいました。 この状態を項燕は立ち直らせる事が出来ずに、結局、大敗してしまいます。 そして、王翦は楚を滅ぼすための進撃を行い、都を落とし楚王負芻も虜にします。 しかし、ここにきて項燕の方も反撃を始めます。 元秦の相国であった昌平君を担ぎ出して王として楚を復興させようとしたわけです。 しかし、項燕と昌平君の二人は王翦を止める事が出来ずに結局、楚は滅亡しました。 さらに、王翦は軍を東に進め百越の部族も平定したとされています。 ここで中国に残っている国は秦と斉しかありません。 しかし、キングダムでは斉王建と秦王政の間には約束があるので事実上は楚の滅亡を以て秦の統一は確実となったはずです。 尚、史実では李信、蒙恬、王賁で斉に攻め込み天下統一が成し遂げた事になっています。 しかし、斉は抵抗しなかったという話が残っているので、楚の滅亡が戦国時代の終焉とも言えます。. 紀元前259年、秦は王陵を起用して邯鄲を包囲し、翌紀元前258年には増派もして、さらに指揮官を王齕に交代させたが、趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君に大敗北を喫した。この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は. 六大将軍は、 自分の意志でいつでも戦いを開始してよい という指示を. 羌瘣ですが、羌(きょう)を性にしています。 羌という字は、姜とも書かれたりするわけです。 周王朝を開くときに、文王や武王の軍師とした呂尚は別名として、姜子牙(きょうしが)とも呼ばれています。 呂尚とか姜子牙という呼び名よりも「太公望」の名が有名かも知れません。 呂尚は、姜性なので羌瘣の遠い子孫の可能性もあるでしょう。 周王朝が成立すると、黄河付近の肥えた地域には姫性(周王の一族)が封じられています。 それに対して、姜性などは姫性を囲むように配置されているわけです。 異民族などの攻撃を受ければ滅亡しやすい地域とも言えるでしょう。 絶大なる功績があったはずの、太公望呂尚でさえば、東の辺鄙な土地である斉に封建されています。 尚、周の幽王の時代に、西周王朝を犬戎と共に壊滅させた申公も姜性の諸侯です。 もしかしてですが、羌瘣の祖先は、それらの諸侯で春秋戦国時代の末期までには、没落していた可能性も十分にあるのではないかと思います。 記録はないので分かりませんが、羌瘣は呂尚の一族の子孫だった可能性もあると言う事です。 しかし、羌性で秦の将軍という事を考えてみれば、羌族とは関わり合いが深いのかも知れません。 尚、三国志の蜀で劉備に仕えた馬超は、羌族の血が流れているとも言われています。 それも考慮すると、馬超には羌瘣と同じ一族の血が流れている可能性はあるはずです。 関連記事:究極のオオカミ少年・周の幽王【西周王朝の滅亡】. キングダムに登場する桓騎は主人公が属する秦という国の将軍。 かつての秦には「六大将軍」という国内最強の6人の武将がいましたが、桓騎の強さは彼らに匹敵するほどの強さと言われています。その評価は、国内最強レベルの武将になります。 中国戦国時代の秦の将軍。秦王政(後の始皇帝)に仕え、秦の天下統一に貢献しています。 秦の筆頭将軍「白老」蒙驁の副将。「化け物」と評される戦の天才で、同じく副将の王翦と合わせて秦の六将軍にも並ぶ実力者と言われているが、国内外での知名度は低く、趙の李牧ですらその実力を知らなかったとされています。 将軍としては「凡庸」と評される蒙驁が高い戦果を上げているのは、彼と王翦の力による所が大きい。 性格は傲岸不遜で冷酷。敵軍への過剰な拷問・殺戮や、敵国の一般市民への虐殺行為など、非道な手段を平然と行い、秦への忠誠心も薄いが、ある種のカリスマの持ち主で、部下からは非常に慕われている。 誰から習ったでもない彼独自の戦術を用い、ゲリラ戦術や相手の虚を衝く戦い方を得意としています。 元は討伐軍相手に無敗を誇った山賊の頭領で、ある邑を攻め落とした際、自ら村人全員の首を切り落としたことで「首切り桓騎」と渾名されています。 この残虐性は根本的に今も変わっておらず、高い実力と功績を持ちながら知名度が低いのはこのためです。 幹部たちは盗賊時代に吸収・征服した盗賊団の頭領達で、やたらと柄が悪かったり奇抜な格好をしている者が多い。残酷だが部下には寛大なので、中にはツッコミどころしかないような者も採用している。 古参の部下曰く、桓騎の原動力は「全てへの激しい怒り」とのこと。.

紀元前226年、王翦と王賁は、前年の燕の太子丹が主導した荊軻による秦王政(後の始皇帝)暗殺未遂事件の報復として、燕の国都の薊を攻略し、燕王喜と丹を遼東に敗走させ. 樊於期は燕に逃亡すると、同じく秦から逃げて来た太子丹の保護を受けます。 太子丹も秦では、秦王政に冷遇された為に恨みを抱いていたわけです。 太子丹の側近たちは「秦王政の恨みを買うから北の匈奴の地に樊於期将軍を逃がす様に」と進言します。 しかし、太子丹は「頼って来た樊於期将軍を見捨てる事は出来ない。樊於期将軍を匈奴に逃亡させるのであれば、私が死んだ後にしてくれ」と男気を見せたわけです。 太子丹は秦に復讐するための意見を傳役の菊武に相談します。 すると、菊武は田光先生を紹介しました。 田光先生は、荊軻を太子丹に紹介したわけです。 荊軻は太子丹の役に立とうと思い話をするのですが、「太子丹からは秦王政は刺殺してくれ」と頼まれたわけです。 荊軻は軍師のような助言役だと思っていたかも知れませんが、会ってみたら暗殺者の募集だったわけですw しかし、荊軻は身を低頭してお願いする太子丹を憐れみ暗殺者の依頼を受けます。 ただし、督亢の地図と樊於期の首が必要だと太子丹に言います。 樊於期の首に対して、太子丹は難色を示すわけです。 関連記事:田光のありえない自殺理由【この人刺客にした方がよかったかも】. 秦の六大将軍は、普通の将軍とどう違うのでしょう? それは、普通の将軍が秦王の命令を受けて動けるようになるのに比べて. 太子丹なのですが、樊於期が燕に逃亡してくると、家臣たちの反対を押し切って保護しています。 さらに、荊軻が樊於期の首が必要だと言った時も「他の方法を考えて頂きたい」といい許可を出しませんでした。 樊於期の命が惜しいと考えたわけです。 これを考えると太子丹は人格者にも見えます。 しかし、荊軻には刺客を依頼しているわけです。 秦王政の刺客になると言う事は、荊軻は殺される事は確実です。 荊軻が曹沫の様に上手く脅し秦王政に土地の返還を約束して帰ってくれば生き延びる可能性はあります。 しかし、ほぼ100%の確率で死ぬ事は間違いないでしょう。 これを考えると樊於期の命は重く、荊軻の命は軽いとも考えているように思えます。 今の日本だと人の命は平等に重たい物と考えがちですが、当時の発想で言えば将軍や貴族の命は重く庶民の命は軽いと考えられていた事が分かるような気がします。 ちなみに、日本では江戸時代に生類憐みの令を行った事で命は平等に尊いものだと認識されたようです。 しかし、春秋戦国時代に生類憐みの令をやったら国は滅亡しそうですけどねw 関連記事:生類憐れみの令は素晴らしい法律だった. その後に行われると思われる論功行賞も気になる所です。 それと言うのも、かつて蒙武(もうぶ)が提言し、秦王政が承諾した六虎将軍に.

この設定は、キングダムでは90%以上の確率でやらないと思いますが、戦国七雄で最後に残った斉を倒すのは羌瘣だという設定です。 史実では、北の燕の方から李信、蒙恬、王賁が斉に侵攻して斉王建を降伏させた事になっています。 それを羌瘣に変えてしまう説です。 斉王建は、本名は田建となりますが、黄帝の子孫とも言われています。 田建の先祖は、春秋時代の斉の桓公の時代に、陳の権力闘争から逃れるために斉に移動してきました。 陳は、黄帝の子孫を名乗っている国になります。 秦 の 六 大 将軍 戦国時代になると、田常は主君を上回るほどの権勢を手に入れて、国を乗っ取ってしまったわけです。 それが戦国時代の斉に繋がっています。 斉は黄帝の子孫を名乗っているわけですから、羌瘣が蚩尤の祖先であれば、先祖の仇を討つと言う事になります。 キングダムの作者の原泰久先生が脚色を加えて、羌瘣が斉王建を破り先祖の仇を討つという設定です。 やってくれたら、面白いかと思いますが、9割以上の確率でやらないと思いました・・・。 想像力の無い私の下らない妄想で終わると思われます・・・。 黄帝は、中国では伝説上の名君ですし、羌瘣が蚩尤の末裔だったとしても敵討ちをする理由はないでしょうからね・・。. 秦 の 六 大 将軍 白起(はくき)は、漫画キングダムで秦の六大将軍として、 秦の昭王に仕えた、めちゃ強い将軍として伝説化しています。 彼は実在の人物であり、伝説化されるに足りる大戦果を挙げ、 そして多くの敵兵を殺戮した人物でもあります。. 王齕 - 紀元前247年(「秦本紀」の末年)まで活躍した秦の将軍。紀元前246年(「秦始皇本紀」の初年)に初めて現れた王齮と同一人物説がある。 登場作品. 司馬遷の書いた史記に、羌瘣は、王翦、楊端和と趙の首都である邯鄲を攻めた記録が残っています。 趙は、李牧と司馬尚が将軍となり羌瘣らと対峙させました。 しかし、李牧は桓騎(かんき)を宜安で破り大敗させるなど、大いに手こずらせたわけです。 これを秦王政や李斯などの秦の首脳陣は悩み、趙の幽穆王の寵臣である郭開に賄賂を贈り李牧を讒言させています。 幽穆王は、これを信じて李牧を自害させて、司馬尚を庶民に落としました。 代わりに趙葱と顔聚を将軍としました。 李牧が死んでも、秦の羌瘣、王翦、楊端和は迂闊に攻める事をしませんでした。 王翦が総大将を務めていたと思われますが、準備をしっかりとして戦略が完全に出来上がってから、趙の邯鄲を攻めたのでしょう このため、趙を滅ぼすのは李牧が死んだ翌年にまで、持ち越されています。 しかし、この戦いで難攻不落と言われた邯鄲を落城させる事に成功し、幽穆王は東陽に逃亡しましたが、羌瘣らの手によって捕まっています。 趙の幽穆王を捕らえたのは、羌瘣の可能性も残っているはずです。 尚、趙の東側では過去に傅抵が将軍となった記録も残っています。 ただし、羌瘣らが幽穆王を捕らえた時には、傅抵が反撃してきたなども記録はありません。.

将軍が勝手に考えて戦争をしていた形跡は、見当たりません。 六将でなくてもいい気がするが・・・。 秦の六将ですが、何も六人に固定しなくてもいい気がします。 趙にしても三大天で3人の将軍がトップに君臨しています。 なぜ、6人なのか?. mixi秦国六大将軍 秦の六大将軍 六将の中で一番好きな将軍をあげてください。 出来れば理由もお願いします。. 史実では、鄴を陥落させた後に、李牧が秦軍と戦う事になります。 李牧が相手だと、王翦も簡単には勝てません。 実際に、桓騎も李牧に大敗して燕の逃亡するなどしていますし、他の秦の将軍が趙を攻めても李牧の相手にはなりませんでした。 そこで、秦はいったん趙を攻めるのをやめて、矛先を韓に変えます。 韓はこの時に、すでに国としての戦力はガタガタですし、韓非子などは、秦で始皇帝に重用されそうになりましたが、結局は秦で殺されています(李斯の陰謀説もある)。 そして、内史騰(内史は役職と思われる)が韓の首都である新鄭に攻め込み陥落させて、韓を完全に滅ぼしました。 韓を滅ぼした後に、秦は再び趙をターゲットにします。 王翦・羌瘣・楊端和と共に趙を攻めます。 しかし、王翦は手堅い戦い方をする人で、相手が名将李牧であれば迂闊に動くことが出来ません。 実際に、桓騎あたりは迂闊に動いてしまったので、緻密な戦い方をする李牧に敗れたのではないでしょうか? 史実の李牧は情報戦をかなり活用していますし、王翦も同様のタイプなので動けなかったのでしょう。史実だと李斯が趙の佞臣である郭開を大金で買収して、趙王(幽穆王)に李牧を処刑させています。 そして、李牧が死に、司馬尚は更迭されて庶民に落とされてしまい、代わりの将軍に趙葱と顔聚がなるわけですが、こちらは組みしやすいと考えて3か月後には邯鄲を落城させています。 この時に、元の太子である趙嘉は、代に逃げのびて代王となり趙はかろうじて生き残っています。 その後、燕から荊軻が刺客として送られてくると、秦王政は燕を攻撃の対象とします。 燕の都を王翦は陥落させて、遼東に逃亡した燕王喜を捕虜として、燕の太子丹は李信が討ち取ったとも言われています。 さらに、王翦の子である王賁は代を攻め滅ぼし、魏の都である大梁を水攻めして魏王仮を降伏させています。 この時点で、中国で残っている国は、秦、楚、斉の3国だけになっていました。 斉は既に、秦と戦う気はないので、後は楚を倒せば天下統一は確実な状態です。 尚、キングダムでは斉王建と秦王政の間で密約が交わされています。. 秦置麗邑。十七年,內史騰攻韓,得韓王安,盡納其地,以其地為郡,命曰潁川。地動。華陽太后卒。民大饑。 始皇十五年(紀元前232年)、秦は大規模な軍勢を興し、(それを二手に分け)一軍を「鄴」、一軍を「太原」へ派遣、「狼孟」という街を奪取した。. 楚人は秦を憎んだ。 そして、一度は秦を破った項燕を悲劇の名将に祭り上げた。 その後、項一族は秦帝国ににらまれ、楚から逃亡した。 項梁は、甥の項羽を伴って呉地方に逃げた。 弟の項伯は、下 に住んでいた後の大軍師・張良のもとに匿われた。. 秦は天下統一を成し遂げたわけですが、秦王政のやり方が過酷であったために、秦王政が死ぬと各地で反乱が勃発しました。 この反乱軍にいたのが、項燕の子である項梁であり孫の項羽です。 項羽は復興した趙を助けに秦軍と戦うわけですが、この時に秦軍を率いているのが王翦の孫であり王賁の子である王離という将軍です。 始皇帝(政)が死んだ後には、李信や王賁、王翦の名前は出てきませんので、既に亡くなっていたのでしょう。 この時に、秦の正規軍30万を率いて圧倒的な有利な状況にも関わらず、項羽率いる楚軍に敗れています。 秦 の 六 大 将軍 この戦いで諸侯は項羽に従うようになりました。 孫の代のリターンマッチでは、王家は項家に敗れているのです。 王翦と王賁が2代続けて名将だったので、3代連続で名将という訳には行かなかったようです。 尚、秦を滅ぼしたのは項燕の孫である項羽です。 ちなみに、項羽は生没年がはっきりとしていて、紀元前232年生まれです。 この時は、まだ王翦がバリバリ現役で活躍していた時期になります。. 魏の総大将、と芒卯(ぼうう)を敗走させる大戦果を挙げているのです。 さらに、秦は趙にも襲いかかり、趙の総大将、賈偃(かえん)を撃破して、.

廉頗からは「腹六分目」と評された。 力の差が歴然としていたのか、現実を突きつけられたようでした。 廉頗がいなくなり、数年後国を出奔しています。 昧広. 信と羌瘣はいい感じで描かれている場合もありますが、羌瘣はかなり鈍い感じも見受けられます・・・。 キングダムの信と羌瘣と河了貂の三角関係?が気になる人もいるようですが、史実の羌瘣は男だと思われます。 羌瘣は、男だったとも記録はありませんが、何も書いてなければ史実で登場する将軍は男だと思われます。 そのため、キングダム作者の原泰久先生も李信と羌瘣が結婚するなどは、描かないのでは?と予想しました。 しかし、一つのポイントとして李牧が死に、趙が滅亡する時かも知れません。 史実では、ここで羌瘣が登場しなくなり、李信が登場するからです。 これに合わせたタイミングで、羌瘣と李信の関係にも何かがあるのかも知れません。 キングダム作者である原泰久先生が、羌瘣と信と河了貂の関係をどのように描くのか?も楽しみです。 ちなみに、キングダムの羌瘣は美人でしかも可愛く描かれているので、かなり萌えるキャラだと思いました。 まあ、現実にはああいう感じの女の子ってまずいないんですけどね・・・。 男の浪漫が詰ったのが、キングダムの羌瘣なのかも知れませんw 秦 の 六 大 将軍 キングダム:キングダムの記事一覧はこちらから. 漫画「キングダム」では、後の始皇帝「秦王・贏政(えいせい)」と、後の大将軍・李信こと「信」は、互いに呼び捨てで呼び合う親友として描かれています。 結論から言うと、李信と始皇帝は親友ではありません。 なぜなら当時、王と臣下が対等に話せるなんてありえないことだから・・・。 実際には「秦王に謁見」することすらも、数回しかなかったのではないでしょうか。 親友である可能性は、かなり低いと思います。 しかも始皇帝は、後の世に「虎狼のような性格」と称されるほど、残忍な性格だったと言われています。 歴史書の記載すべてが真実かどうかは定かではありませんが、「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」「趙国での虐殺」などを見れば、始皇帝が残酷な人間であることが、よくわかります。 そんな人が、家来による「タメ口」を許すのか・・・かなり考えにくい気がします。 とはいえ、二人が親友である可能性は相当低いですが、「始皇帝」が「李信」を相当に信頼していたことだけは確かです。 キングダムで「首切り桓騎」と呼ばれている桓騎将軍の末路と比べると、李信がどれほど信頼されていたかがよくわかります。. . 樊於期ですが、史記によると始皇帝に恨みを持って燕に逃亡した事になっています。 家族を始皇帝に殺されてしまった事が恨みになっているようです。 しかし、何で始皇帝(秦王政)が樊於期の家族を殺してしまったのかは、いくつかの説があります。 それを紹介します。. 漫画「キングダム」で「秦の怪鳥」と呼ばれ、春秋戦国時代の「戦国七雄」すべてから恐れられていた事になっている王騎将軍。 「六大将軍」と呼ばれて、最強の名将ってことになっていますよね。 しかし歴史書「史記」には記述が少なく、とてもじゃないが名将とは思えないのです。 記述されている内容は?というと これだけです。13年も戦場にいたにもかかわらず・・・実績が少なすぎる気がします キングダムに登場する「六大将軍の筆頭・白起(公孫起)」は、史実でも間違いなく名将でした。 秦 の 六 大 将軍 白起将軍は、生涯で100万以上の敵兵を討ち取っており、その手腕は後世でも恐れられています。 もしも王騎が本当に、白起と並ぶ名将なら、白起並みに歴史書への記述がなされているはずです。 しかし、王騎は秦王「贏政」が即位した時に将軍に任命されているので、おそらくそれほどの名将ではないのでしょう。 紀元前257年の「邯鄲・包囲戦」では落城させて結果を出すことが出来ず・・・韓の上党攻略くらいしか、はっきりしている功績はありません。 秦の怪鳥・王騎 残念ながら、「名将」と呼ぶには功績が足りなすぎる気がします。 「王騎」には、同じく「六大将軍」の1人「王齕(おうこつ・キングダムで楚国の『汗明(かんめい)』に敗れた怪力の豪将)」と、同一人物という説があります。 その他「王騎」について、詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。. . 荊軻は太子丹の説得するのは無理だと判断して、樊於期に直接話す事にします。 すると、樊於期はすぐに了承します。 燕に対して恩が出来た事や家族を秦王政に処刑されてしまった事で、復讐が出来るのであれば、自分の首は安いと思ったのでしょう。 すぐに樊於期は自決しました。 荊軻は事後報告で太子丹と会い事情を説明しました。 太子丹は悲しみましたが、納得して督亢の地図と樊於期の首を持たせて荊軻を秦に向かわせたわけです。 しかし、荊軻は秦王政の前で暗殺しようと頑張りますが、連れ行った秦舞踊が動けなくなってしまい失敗に終わっています。 尚、これに激怒した秦王政は燕を厳しく攻め立てました。 これに耐え切れず首都である薊は落城し燕王喜と太子丹は遼東に逃亡しています。 しかし、太子丹は燕王喜の刺客に殺されたとも、秦の将軍である李信に斬られたとも言われています。 結局、樊於期の首は無駄になってしまったわけです。.

史実で見る【秦の六大将軍】 キングダム登場人物>>>★登場人物【昭王と六大将軍】 キングダムでの秦の六大将軍(白起、王齕、胡傷、司馬錯、摎、王騎)は、実際に史実に出ている人物となりますが、【六大将軍】というのは漫画「キングダム」の中での呼称となるようです。. 本日の記事をまとめますと ・李信と始皇帝が親友である可能性は、限りなく低い ・しかし、始皇帝が李信を非常に信頼していたことは間違いない ・秦の怪鳥・王騎将軍は、名将と呼ぶには実績が足りなさすぎるので、おそらく史実上は、漫画「キングダム」に登場するような名将ではない 以上となります。 本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。 よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。 ありがとうございました. 「お前らも一皮むけるいい機会だ。ここで大人の戦いを覚えていけ、飛信隊」と言います。 桓騎将軍の率いる戦いに援軍として参加する飛信隊。最初の挨拶の時、桓騎は信に「大人の戦い」と語ります。 「ここで大人の戦いを覚えていけ」と信に言い放ち始まった慶舎率いる趙軍との黒羊戦が始まります。先の読めない戦術によって激闘が繰り広げられていますが、果たして桓騎と信は勝てるのか、、続きはキングダムのコミックでどうぞ! 桓騎を見て尾平が発言します。. 紀元前229年~紀元前228年、王翦が数十万の軍の指揮を執り趙と対峙した時、李信は趙の太原・雲中に出征した 。. キングダム (漫画) - 秦の六大将軍の一人「王騎」として登場。 達人伝-9万里を風に乗り-- 秦の若手の. See full list on crypto-click.

秦 の 六 大 将軍 See full list on imazinnsei. キングダムの設定では、羌瘣は蚩尤の末裔という事になっています。 蚩尤と言うのは、暗殺者集団のような描き方をされていますが、黄帝と戦った怪物ともされています。 史書でいう怪物は、本当の化け物ではなく異民族を指しているのかも知れません。 黄帝が中国最初の帝だとも考えられていて、司馬遷の史記では帝王の王朝を紹介する本紀の部分で、五帝本紀の最初に登場する人物です。 史書によっては、三皇(五帝の前の時代)に入れられる事もありますが、多くの場合で五帝の最初の人物となります。 中国の帝王は、全ては黄帝から始まったとも言えるわけです。 その黄帝の実績の一つが蚩尤を討伐した事です。 蚩尤は、72人の兄弟と共に大軍を率いて、黄帝に背いたと言われています。 豪雨を降らせたりの濃霧を発生させたりして、黄帝を苦しめますが指南車を作り、ついに蚩尤を倒したとも言われます。 黄帝の戦いについては、熊や豹などの獣を戦争で使った記述もあります。 しかし、猛獣を戦場で仕えるのか?と言ったら疑問点もかなり多いです。 下手すると自分が猛獣に噛まれてしまうでしょう・・・。 黄帝は、この様にして蚩尤を倒したとされています。 ただし、これが紀元前何世紀ごろなのか?と言われるとはっきりとしません。 中国は、三皇五帝→夏王朝→殷王朝→西周王朝→春秋戦国時代→秦という時代になっています。 キングダムの世界は、春秋戦国時代の末期ですし、西周王朝時代の辺りは年代がとにかくはっきりとしません。 秦 の 六 大 将軍 それを考えると、黄帝はいたとしても紀元前2000年頃の人の可能性もあります。 尚、黄帝は、文字、衣服、弓、家、船などを発明したともされています。 ただし、文字を作ったとされている割には、黄帝の時代の文字は見つかっていません。 この中国最初の帝王である黄帝と戦ったのが、蚩尤だと言う事です。 破れた蚩尤が、その後にどうなったのかは不明な点が多いです。 犬戎や匈奴などの祖先だと考える人もいます。 関連記事:夏王朝の謎 関連記事:冒頓単于の史実【匈奴の全盛期を築いた男】劉邦軍32万も破る!. 樊於期と桓騎が同一人物だとする説をいう人がいます。 樊於期と桓騎は日本語ですと、読み方に大きく違いがありますが中国語だと発音が似ているそうです。 桓騎は、楊端和、王翦などと鄴攻め(ぎょうぜめ)などで活躍したりしています。 さらに、桓騎は趙将である扈輒を破り10万人の首を斬っています。 かなりの武功を挙げたのですが、趙が李牧を出してくると敗北して、そこから先は歴史に登場しなくなります。 李牧に敗れた桓騎は死亡したとも燕に逃亡したとも言われているのです。 秦王政の処罰を恐れて燕に逃亡した桓騎が樊於期になった説です。 ただし、本当のところはよく分からないの実際のところでしょう。 キングダムでは明らかに樊於期と桓騎は別人になっています。 しかし、先に燕に逃亡した樊於期を桓騎が殺害して荊軻に首を渡すなどをしてくれるかも知れません。 どうなるのかは分かりませんが、原泰久先生に期待したいと思います。 関連記事:李牧は悲運の名将! 関連記事:王翦は春秋戦国時代の最後の名将! 関連記事:鄴(ぎょう)攻めの史実【趙は全盛時の国土の半分を消失!?】.

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